「外部は内部である」という言明にはでっちあげられた過去をでっちあげと知りながらそれでもそういうものに対して抑えがたく感じてしまう郷愁に似た退嬰的な甘美さがある。
すべてを灰燼に。
「外部は内部である」的視点あるいはそうした視点への志向とは排除の身振りがその排除しようとするものをそもそも前提としているあるいは呼びこんでしまうということでぼくの望むのは端的な「いまここ」一元論であってみればそのような「翻って見れば」的思考志向指向嗜好には反旗を翻すべきだ。
とも思われる。
「外部は内部である」という視点あるいは視点への志向がぼくにはあるのだけどそんなものはいますぐにでも棄てさられるべきだ。
なんとなくおもしろい。それでいい。
ぼくは猫をそれなりに好きだけど根っこでは「猫なんてしょせんそこらを飛んでいる蛾をぺろっと食べたあとに白目をむきながら舌なめずりするような生きもの」という線を出ない。
「度をこして」という形容が当てはまるぐらいに猫好きな人はちょっとアレな感じだという偏見がぼくにはある。(ここで「度をこして猫好きな人」とは現在知りうる知見に照らしあわせれば「んなわきゃねえだろ」という属性を猫に付与しているような人を指す)
「釈迦力」という言葉は響きも字面もそして意味もものすごい。
ぼくの専門はいちおう数学の哲学および数学史ということになっているのだけど気がつくと神学大全をラテン語で読みこんでいたりしていったいおれは何をやっているんだ感がつよい。
宿題の採点をしていると面妖な解答に出くわすことがちょくちょくあってそのような場合かなりていねいに正答かどうかを検分するのだけどざんねんながらそういう面妖な解答が正答であることはほぼ皆無にちかい。